< テーマ図(黒番) >
1612年、徳川幕府より禄を貰う専門棋士が誕生。明治維新により江戸幕府が崩壊すると生活基盤を無くした専門棋士は右往左往することになりました。
その後関東大震災の大きなダメージ後に分裂していた囲碁界は1923年に東西の棋士が集まり日本棋院が設立されたのです。
そして時代の流れの中で、『本因坊』が世襲制から初のタイトル戦に移行します。
しかし、第2次世界大戦が始まり日本中が大変な時代に突入します。第2次世界大戦が始まりましたがその戦時下の唯一のタイトル戦本因坊戦だけは継続され打たれていたのです。
戦中下、第三期本因坊戦は本因坊・昭宇(橋本宇太郎七段)に岩本薫七段が挑戦。
第2局が8月4~6日に広島市内に決まっていたのですが対局前に『中国地方総監部より広島市内の対局は危険であり中止せよ』の連絡が入り、結局対局場を広島市内から8キロほど離れた五日市町に移動。その警告が対局者の命を救います。
この対局が『原爆対局』『原爆の碁』となります。
対局3日目の6日の朝8時15分、両対局者が、それまでに打たれた手順を盤上に並べ終えた頃だったようです。突然の『ピッカと閃光、強烈な爆風』で盤上の碁石は飛び散り窓ガラスが粉々になり対局者も座っていられる状態でなかったそうです。
それでも当日の10時半頃対局は再開され午後4時頃に終局。
結果は本因坊・昭宇5目勝ち。
対局者は、その時は、どれほど恐ろしいことが起きたかは理解不可能だったでしょう。それでも『大変なことが起きた』と感じながらも本因坊戦挑戦手合いを打ち続けた集中力に感服します。
『原爆対局』を経験した後、世界への囲碁普及を目指し、実行された大先輩の岩本薫先生。その足跡を辿りながら世界囲碁普及を自分のライフワークとしているのが私です。
30代に師匠故木谷實九段のご家族から伺った話『戦後の焼け野原を見て父は「碁が世界に広がれば平和になれる」君は父の夢を継いでいてくれるよ』と。戦いは盤上だけで十分です。
日本棋院の歴史100年は『世界に囲碁が広まり世界が盤上を通じて一つになれる』その100年だったと願います。
さて、本局はこのような戦時下の元で打たれた1局です。
橋本宇太郎九段のニックネームは『天才宇太郎』『火の玉宇太郎』『変幻自在流』、岩本薫九段のニックネームは『豆まき碁』(中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」)。
「この一手」に入る前にまずは初手から石の流れを見ていきます。