第73期本因坊戦(毎日新聞社・日本棋院・関西棋院主催、大和証券グループ協賛)は、本因坊文裕(井山裕太九段)の7連覇で幕を閉じました。明治維新・戊辰戦争150年記念と銘打って打たれた七番勝負を、開催地の山口、福島両県を含む8人の歌人が短歌で振り返りました。
てのひらのやわらかきことに驚きぬ本因坊と握手せしとき
三枝昻之・日本歌人クラブ会長(宮中歌会始め選者)の歌です。山口県萩市で行われた第1局の前夜祭で、文裕と初めて握手を交わした時の感慨を詠みました。そして、翌日、会場の「萩・明倫学舎」で対局が始まると、歌人たちの目は盤上に釘付けになります。
息を呑むとはこのことか石ひとつ碁笥より出だす細き指はや(本田一弘・福島県文学賞審査委員)
初手を打つ指のすずしさ戦いの盤上にすっと差し出だされて(斎藤芳生・福島県文学賞企画委員)
七連覇のかかる文裕瞑目後左手(ゆんで)ねじりて白2を打ちぬ(伊藤正幸・日本歌人クラブ福島県代表幹事)
8人にとって、囲碁の対局を前にした緊張感は初めて味わうものです。本田一弘さんはこう回想しました。「開始時刻を待つ両対局者、部屋の中にいる全ての人の息が止まり、緊張している時間と空間はこれまで経験したことのなかったものでした。文裕の左手の指先が神々しいまでに美しかった」
続いて8人が観戦したのは、第5局の福島県会津若松対局。前夜祭を前に、会津は激しい雷雨に見舞われましたが、その時の様子を長尾健彦・日本歌人クラブ山口県代表幹事はこう詠みました。
鳴神(なるかみ)の足音(あのと)た走る会津嶺(ね)に玄武と白虎が陣を競ひぬ
会場は、東山温泉の旅館「今昔亭」です。日本歌人クラブの三枝さんが、緊張を破って打たれた一手を再現しました。
乾坤の一擲としてまず打ちぬ右上小目左上星
挑戦者の礼節ある振る舞いにひかれた雁部貞夫・新アララギ代表が詠んだのは、山下敬吾九段を江戸時代の棋士・安井算哲に重ねた応援歌でした。
本因坊戦その初手いかに天元に発止と打ちし安井算哲
2日目の朝、歌人たちは対局室で繰り広げられる光景にも目を見張ります。時計のような正確さで、山下九段と文裕が前日打った手の石を盤に置いていき、封じ手が開封されて勝負が再開される――その洗練された作法に息を呑みました。
ひしひしと黒白(こくびゃく)攀(のぼ)り盤上に水勢つのる文月一日(上村典子・山口県歌人協会理事)
盤上の石つやつやと気の満ちて山下九段の封じ手切らる(伊藤正幸さん)
やがて形勢は文裕に傾き、夕刻には6度目のタイトル防衛が決まりました。「極度の緊張感の中、作法の美しさが際立ち、その場にいることの幸いを胸に刻みました」と上村典子さん。三枝昻之さんは対局を振り返り、文裕と山下九段が紡ぎ出した深淵な世界をこう詠みました。
盤上を一手一手と占めてゆくおのれの宇宙呼び寄せるため
今期本因坊戦の対局地となった長州と会津には、戊辰戦争から150年たった今も重い歴史が沈殿しています。本因坊戦を詠んだ歌人たちは、その歴史にも思いをはせました。
長州会津隔てし距離よ茫茫と萩城下より方位確む(伊藤正幸さん)
正史には残らぬ人の真心をきらりと川は光を返す(澤井潤子・山口県歌人協会理事)
山口のうたびとを抱き白虎隊屠腹のやまは泣きぬわらひぬ(本田一弘さん)
恩讐の彼方へ手をとり歩まむよ百五十年へて今がその時(雁部貞夫さん)
第73期本因坊戦と長州・会津の150年の歴史を詠った歌人8人の「5首」です
- ● 三枝昻之さん
走り出す若者たちの声を聴く維新への声、世界への声
てのひらのやわらかきことに驚きぬ本因坊と握手せしとき
乾坤の一擲としてまず打ちぬ右上小目左上星(本因坊戦五局目)
盤上を一手一手と占めてゆくおのれの宇宙呼び寄せるため
なお生きる藩訓の国礼節の会津を青き山々が抱く - ● 雁部貞夫さん
会津より道の長手を辿り来て今ぞ仰げる萩の城山
本因坊戦その初手いかに天元に発止と打ちし安井算哲
若者を鍛へ育てしふた所萩明倫館と会津日新館
恩讐の彼方へ手をとり歩まむよ百五十年へて今がその時
会津には氏郷守りし茶の湯あり友もてなさむ萩の碗にて - ● 長尾健彦さん
初手の音(ね)をミニエール銃撃つ音と訊(き)く本因坊戦始まる萩に
松陰が一目置きし月性(げつしやう)の剣舞や松風(しようふう)村塾に鳴る
鳴神(なるかみ)の足音(あのと)た走る会津嶺(ね)に玄武と白虎が陣を競ひぬ
たちあふひ統(す)ぶる兵糧攻めの城 夏越の会津梅雨明けはやし
戊辰戦に斃れしもののふ弔(とぶら)ふと白河踊り現代(いま)萩に舞ふ - ● 上村典子
とどまりて見送るのみの母お滝ながき夜半を聴きけむ河鹿
青年の享年二十九歳(にじふく)火打ち石かちあふ音す海のあを見ゆ
笑まひつつ会津のひとの寡黙なり庭に指しゐる八重のどくだみ
斗南なる餓(かつ)ゑおもへば苦しきに今宵酌みあふ<飛露喜>の美味し
ひしひしと黒白(こくびゃく)攀(のぼ)り盤上に水勢つのる文月一日 - ● 澤井潤子さん
朝日さす明倫学舎の梁の下初めの一手石置かれたり
わだかまり溶けゆく頃か夏柑の花の香りが城下に満つる
正史には残らぬ人の真心をきらりと川は光を返す
時の来て勝たねばならぬ黒白の石の打たるる音の響けり
立ち上がる歌があるなり御薬園に明日は開かむ縄文ハスは - ● 伊藤正幸さん
七連覇のかかる文裕瞑目後左手(ゆんで)ねじりて白2を打ちぬ
長州会津隔てし距離よ茫茫と萩城下より方位確む
松陰の生家跡より遠き日のまなざし重ね海を見つめぬ
盤上の石つやつやと気の満ちて山下九段の封じ手切らる
敗者には澱みし時か萩「維新」会津「戊辰」の百五十年 - ● 斎藤芳生さん
初手を打つ指のすずしさ戦いの盤上にすっと差し出だされて
盤上にひかる碁石の黒と白りんりんと 外はぶち暑い萩
夏蜜柑かおる光を持ち帰るよく語りよく笑いしのちに
立葵咲きのぼりゆく白昼の盤上に打たれたる石しずか
碁も歌も真剣勝負 蝉声も沢の音の烈しきも聞こえず - ● 本田一弘さん
夏みかんいろのひかりがあふれたる萩の空なり息ふかく吸ふ
息を呑むとはこのことか石ひとつ碁笥より出だす細き指はや
黒白(こくびゃく)をつけねばならぬたたかひが悲しくありき百五十年まへ
亡き人に東も西もあらなくに会津のつちにしづもるいのち
山口のうたびとを抱き白虎隊屠腹のやまは泣きぬわらひぬ