名伯楽・藤澤一就八段(前編)―「好きなように打て」父・藤沢秀行名誉棋聖と一就少年【コラム:品田渓】


  • * 昨年、入段から最速で七大タイトルホルダーに上り詰めた関航太郎天元に、女性初の最多勝利賞を獲得した上野愛咲美女流棋聖。2人は藤澤一就八段が運営する「新宿こども囲碁教室」から羽ばたきました。多彩な棋士を輩出し続ける「名伯楽」藤澤一就はいかにして生まれたのか。前編では父、藤沢秀行名誉棋聖のもとでどのように育ち、プロへの道を歩むことになったのかを描きます。

 昭和の大棋士にして「最後の無頼」とも呼ばれる藤沢秀行名誉棋聖は藤澤一就八段の父親だ。秀行名誉棋聖の破天荒を絵に描いたような振る舞いは書籍などで知っている方も多いだろう。華麗な打ち回しとその豪快さに、多くの人が心を惹かれ、長きにわたって愛され続けている。
 ただ、この無頼が父親となると話は違う。「一緒に暮らしている間は大変でした。昼間からお酒を飲んで、夜中に起きて暴れて、大騒ぎして。酔っぱらって真夜中に当時の文部大臣に電話したりもしていました」。物を壊すし、怒鳴るし、だれかれ構わず電話をかけるし、一就少年にとって父は恐ろしい存在だった。屈託なく父を尊敬したり、憧れたりなどできなかった。
 ところが、そんな藤澤がプロの道を歩むことになる。「12歳の時に父から『プロになりたいか』と聞かれたんです。そんなの、恐ろしいじゃないですか。だからただ黙ってたんです。そしたら『そうか!なりたいのか!』って言って。それから毎日碁会所通いです。当時の僕は東大に行って銀行員になりたいと進学塾に通っていたのに、それもやめさせられました」。この時の棋力は10級程度。秀行名誉棋聖はなぜ一就少年をプロにしたいと思ったのか。藤澤に尋ねると「なんででしょうね。1人ぐらい(同じ道を行く子どもが)ほしいと思ったんですかねぇ」。真意は不明だが、とにかく、この時から碁漬けの日々が始まった。

 ハチャメチャで理不尽な父だったが、碁には誠実だった。碁を学ぶ人に対しては誰であっても公平だったし、誰が打ったどんな手にも敬意を払った。「勉強しろとは言われましたが、こう打てとか、覚えろとか、一切言われたことがありません。『好きなように打て』が口癖で、悪手を打っても、それが自分で一生懸命考えた結果なら怒られることはありませんでした」。
 14歳の時に父に渡された「碁の心得」がある。以下、全文(原文ママ)。

碁の心得

  • (1) 相手に攻撃されても恐それてはいけない。唯攻撃あるのみ、例え相手が天下人でも恐それては上達は止まる。
  • (2) 先哲の碁を調べ、どのような意味で打たれたものか考え、勉励あるのみ、
  • (3) 間合は特に考えることなく、攻撃すること。間合は上達と共に自得するものである。
  • (4) 定石は特に勉強することを要せず、必要に応じて調べればよい。唯眼をとうすだけでよいもの。
  • (5) 何人たりとも恐それてはいけない。自分の悪いと思いたことをすると上達は止る。唯勉励膝錐(しっすい)之志を行ふときは天下第1の者となる。

 以上5ヶ條を行ふときは天下人となる。
 昭和53年3月7日  秀行  一就殿

(注・膝錐(しっすい)之志は秀行名誉棋聖が色紙に好んで書いた言葉。眠気を覚ますため膝に錐を当てて勉強したという中国の故事が由来)

 原稿用紙に書かれたそれは、間違いを二重線で消したり、後から文言を付け加えたり、いかにも無造作に書かれている。いい加減で自分勝手だが、面白みがあって憎めない。秀行名誉棋聖の人柄がうかがえる。照れ屋で不器用な父親の愛情表現。それを捨てずに取っておいたということは、この頃には「父=ただ恐ろしい人」ではなくなっていたのかもしれない。困った父だが、いいところも、尊敬できるところも、確かにあった。

 碁会所通いを始めて1年後には五段の腕前になり、16歳で入段を果たした。「父に入段を報告したら『そうか、それじゃあもうお年玉はいらねぇな!』って言われました(笑)」。
 碁は尊敬できる人でも一緒には住みたくない。藤澤は17歳で親に一言も相談せず部屋を借りた。「当時はおおらかで、審査とかそんなになかったんです。その辺の売店で三文判を買って、その日のうちに契約して1人暮らしを始めました」。
 こうして棋士、藤澤一就が誕生した。

記・品田渓

  • * 後編では「新宿こども囲碁教室」の指導哲学に迫ります。


藤沢秀行名誉棋聖。破天荒な振る舞いで「最後の無頼」と呼ばれた。


14歳の時、父・藤沢秀行名誉棋聖から渡された「碁の心得」。