名伯楽・藤澤一就八段(後編)―「世界を目指す」新宿こども囲碁教室誕生【コラム:品田渓】


  • * 前編では「最後の無頼」と呼ばれる昭和の大棋士、藤沢秀行名誉棋聖を父に持つ藤澤一就八段が、どのように育ち、プロの道に進んだのかを描きました。後編では、関航太郎天元をはじめ活躍中の棋士を多く輩出する「新宿こども囲碁教室」の指導哲学に迫ります。

 「世界で戦える棋士を育てる」。藤澤がそう決めたのは21年ほど前のことだ。「すでに日本が国際戦で勝てなくなって久しかったので、とにかく世界で通用する人材が必要だという思いがありました」。新宿こども囲碁教室の誕生である。
 始めた当初の生徒数はわずか十数人。弱小教室だったが淡々と続けていくうちに少しずつ人数が増えていった。生徒の中にはやんちゃで手を焼く子もいたが、門前払いをすることはほとんどなかった。「僕はそういうところは寛容なんです。子どもはいつか落ち着くものですしね」。
 マンガ「ヒカルの碁」の大ヒットで生徒数が増えると、その中からプロを目指す子も出てきた。そこで2007年にプロ修行をする子向けに道場を開く。道場に「天豊」と名付けたのは秀行名誉棋聖だった。「父は晩年も体が動く間はずっと碁の研究をしていて、合宿もしていました。天豊道場で毎月研究会をしていましたし、里菜(娘の藤沢里菜女流本因坊)や弟子たちが父の合宿に参加したこともあります」。
 2007年は道場が開かれたのと同時に、寺山怜六段が入段し、教室から初めて棋士が誕生した年でもある。手塩にかけた生徒がプロ入りしたのだ。普通なら喜びに浸ったり、一息ついたりしそうなものだ。しかし、藤澤はすでに次の世代を育てることを考えていた。
 翌年、6歳で棋士を目指すグループというのを作った。メンバーは関航太郎天元、広瀬優一六段上野愛咲美女流棋聖を含む5名ほど。広瀬六段と上野女流棋聖はこの時すでに有段者だったが、関天元はまだ級位者だった。「関は戦いのセンスがすごくよかったんです。それで入ってみないかと誘いました」。

 「6歳でプロを目指す」というのは、当時としてはかなり異端だったと言える。伝統文化としての囲碁は礼節を重んじ、自ら学ぶ姿勢を求める。そのため「礼儀作法と学ぶ姿勢ができている者だけがプロを目指す資格あり」とするのが一般的だった。しかし、まだ6歳の子どもに礼儀作法や学ぶ姿勢を求めるのは酷というもの。当然ながら目を離せばふざけるし、黙っていても自分から勉強することなどなかった。「特に関は落ち着きがなくてやんちゃで全然勉強しませんでしたよ。でも、打っている時の集中力と戦いのセンスは抜群だったんです」。藤澤にとって重要だったのはどんな態度かではなく、どんな碁を打っているかだった。
 生徒たちへの指導は自然とその子の長所を伸ばすことに力点が置かれた。「好きなように打ちなさい。ただ、好きなように打っても勝てるように力をつけなさい」。定石や型を教え込むことはせず、自主性を重んじる。気付けば父と同じことを言っていた。
 棋譜並べが嫌いな子には詰碁を、棋譜並べも詰碁も嫌いな子にはひたすら対局するよう勧めた。「勉強は量×質だと思っています。イヤイヤやっていても質は上がらないので、そういう場合は好きなやり方で質が高い勉強をした方がいいでしょう」。教室出身の棋士たちは皆、個性豊かで棋風もさまざま。それこそが、秀行名誉棋聖から続く「藤澤流」の表れとも言える。

 教室から初の七大タイトルホルダーが出ても藤澤の毎日は変わらない。取材に訪れた日も次のプロ候補たちの指導にあたっていた。「結果が出るまでには何年もかかりますし、その間にも新しい子はどんどん出てきます。僕は体力が続く限りこれを続けるだけです」。
 公平で自由な精神の持ち主は世界を志向するものだ。父、秀行名誉棋聖は日本が圧倒的に強かった時代に中国へ出向き、聶衛平九段ら多くのスター棋士を指導した。当時「ライバルを強くしてどうする」との声もあったそうだが、秀行名誉棋聖はまったく意に介さなかったという。時を経て、日本が中韓の後塵を拝すようになった現在、息子の藤澤が日本で世界に通用する棋士を育てようと奮闘している。「碁に対する考え方は染みついたものなんでしょうね」。父を継ぐ藤澤が、父とは違った形で世界を目指すのは、ある意味当然なのかもしれない。

記・品田渓


第43期新人王戦囲碁将棋合同表彰式にて。新人王を獲得した広瀬二段(当時)と藤澤八段。

第21期女流棋聖就位式にて。上野女流棋聖と藤澤八段。

第47期天元戦第4局。教室初の七大タイトルホルダー、関航太郎天元が誕生した。